横山やすしさんの天才

たまたまYouTubeで「やすきよ漫才」の動画を見たのですが、やすしさんときよしさんの漫才は面白いですよね。

テンポも良いですし間の取り方もうまいですし、体の動かし方も面白いですし、どこをとっても非の打ち所がない完璧な漫才だと思います。

ただ、横山やすしさんのほうは、ちょっとお騒がせなところもあって、それが原因で漫才の世界から遠ざかってしまったのが残念でしたよね。

漫才に関しては天才だったと思うのだけどなあ…

 

横山やすしさんがプロの漫才師を志したのは、中学生の頃に同級生と出演した素人参加型のラジオ番組がきっかけだったようですね。

そして、中学を卒業してすぐに松竹芸能に入社し、同級生とコンビを組んで漫才師としてデビューしたものの、同級生の廃業により、わずか2年でコンビは解散したそうです。

また、その後は横山ノックさんに弟子入りして吉本興業に移籍し、そのときから横山やすしという芸名を名乗るようになったようです。

ただ、その頃のやすしさんは、何度か漫才コンビを結成するものの、すぐにコンビが解散してしまうので、関係者からは「コンビ別れの名人」と言われていたみたいですね。

芸に熱心すぎるやすしさんと、そこまでではない相方との温度差が解散の原因だったらしいですが、やすしさんはやすしさんで悩んでいたらしく、一時期は廃業も考えたようです。

 

そして、そうした中、やすしさんは西川きよしさんと出会い、2人で漫才コンビやすしきよし」を結成したのですね。

やすしさんが「コンビ別れの名人」と言われていたせいか、当初はコンビ結成に反対する声もあったそうですが、2人の間には相通じるものがあったのでしょう。

また、2人がデビューすると、その型破りな漫才はすぐに評価され、結成からわずか5年で歴史ある「上方漫才大賞」を受賞し、「やすしきよし」は、名実ともに日本一の漫才コンビになりました。

ただ、その一方、そのあたりからやすしさんの不祥事も目立つようになったのですよね。

 

そして、1986年には、相方の西川きよしさんが参院選に出馬して当選し、国会議員として活動するようになりましたが、この出来事が、横山やすしさんにとっての転機になったような気がします。

きよしさんの多忙により、漫才コンビやすしきよし」の仕事が減ったこともそうだと思いますが、何より、相方のきよしさんが、漫才とは違う世界に向かって歩き出したことがショックだったのではないかと思うのですよ。

横山やすしさんにとっての西川きよしさんは、日本一の漫才コンビを一緒に目指してきた戦友のような存在だったと思いますので、きよしさんの当選で非常に大きな喪失感を感じたと思います。

また、1989年には、度重なる不祥事が原因で、やすしさんは吉本興業から専属契約を解除されてしまうのですよね。

 

今であれば、YouTuberとして活動するという選択肢もあったと思いますが、その当時は、事務所との契約がなくなったら、ただの人といった感じでしたからね。

やすしさんも、相当辛かったと思います。

そして、1996年、お酒が原因と言われていますが、やすしさんは51歳という若さで帰らぬ人になってしまいました。

 

記憶に残るエピソード

さて、そんな横山やすしさんですが、1982年頃に徹子の部屋に出演されたことがあって、そのときにやすしさんが語った話しが、今でも記憶に残っています。

恐らく、やすしさんが吉本興業に移籍して間もない頃の話しだと思うのですが、その当時は、下積みの芸人が舞台に上がると、200円だったか300円だったか、ともかくわずかなお金がもらえたそうなのですよね。

また、当時の下積みの芸人は、食べることにも苦労していたそうで、そういうお金が入ると、すぐにお腹を満たしに行くらしいのですが、やすしさんはそういうことはせず、そのお金で床屋で顔剃り(シェービング)をしてもらい、その間にネタを考えていたそうです。

やすしさんも、お腹は空いていたということでしたが、それよりも芸が大事だったのでしょう。

プロフェッショナルですよね。