親心というか母心というか

80年代の初め頃に漫才ブームというのがあって、その当時は多くの漫才師さんがテレビで活躍していたのですが、その中の一人にビートたけしさんがいました。

若い世代の方には、北野武さんと言うほうがわかりやすいかもしれませんね。

当時のたけしさんは、漫才コンビ「ツービート」の一人として、相方のビートきよしさんと二人で漫才をしていたのですが、テンポが速く、毒舌と評される言葉を多用する独特のスタイルの漫才でした。

ただ、口が悪いわりには腹が立たないというか、むしろ口の悪さが面白いといったところもあって、個人的には、そんなツービートの漫才が好きでした。

そして、その後のたけしさんは、テレビだけでなく、ラジオや映画といった世界でも活躍するようになるわけですが、その頃になると、たけしさんの生い立ちや家族についても話題になるようになり、それはそれで興味深いものでした。

 

生い立ち

ビートたけしさんは、いわゆる団塊の世代で、塗装職人の父と、のちにテレビなどで話題になることも多かった母の四男として、昭和22年に生まれました。

他の兄弟とは少し歳が離れていたそうで、それもあってか、幼少の頃は祖母に可愛がられていたようですが、父親がだらしなかったこともあり、母親は厳しく、教育にも熱心だったということです。

また、そんな母の薦めで明治大学工学部を受験し、現役合格するのですが、大学生活に馴染めず、当時盛んだった学生運動にも関心を持てなかったようで、友人の下宿に居候してアルバイト生活をするようになり、最終的には大学から除籍されたそうです。

そして、その後、浅草フランス座演芸場でエレベーターボーイを始めるのですが、そのときに、ツービートの相方となるビートきよしさんから漫才コンビの誘いを受けたのがきっかけで、漫才の世界に入ることになったのですね。

 

個性ゆたかな兄と母

一方、ビートたけしさんと言えば、大学教授でタレント活動もしていた兄の大(まさる)さんと、明治生まれの母さきさんの存在も欠かせませんね。

兄の大さんがタレント活動をするようになったのは、たけしさんがいたからだと思いますが、それもあって大さんは、「自分がタレント活動ができるのは弟の七光り」といったお話しをよくされていました。

大さんは非常に温和な方で、クイズ番組の回答者や報道バラエティ番組のコメンテーターなど、幅広く活躍されていましたね。

また、母のさきさんは、明治生まれということもあり、肝っ玉母さんといった感じで、たけしさんが写真週刊誌の編集部を襲撃したとき(いわゆるフライデー事件のとき)には、取材に訪れた報道陣に対して、「死刑にしてください」とか、「死んで詫びろ」といった辛辣なコメントをされていましたね。

ただ、兄の大さんによれば、たけしさんがバイクで交通事故を起こしたときには、たけしさんの快方を祈願するために遠方の神社まで出かけるなど、母親らしい一面もあったということです。

厳しく教育熱心だった反面、末っ子のたけしさんが可愛かったということもあったのかもしれませんね。

 

記憶に残るエピソード

また、そんな母さきさんについて、たけしさんが次のような話しをしていたことがありましたが、自分はこの話しが強く印象に残っています。

テレビに出始めた頃に母親から突然電話があり、「テレビに出てるね。小遣いちょうだい」と言われて、それ以来、会うたびにお金をせがむようになった。

「頑固ババアめ」と思いながらもお金を渡し続けたが、母が亡くなる2年前にお見舞いに行ったときに、姉さんから「たけしに渡してくれと頼まれた」と言われて紙袋をもらった。

その中には、自分名義の通帳が一冊入っていて、これまで母に渡してきたお金がすべて貯金されていて、それに加えて、母が受け取っていた年金の一部も貯金されていた。

さきさんがどういう気持ちでこうこうことをされていたのかまではわかりませんが、もしかしたら、芸人という浮き沈みの激しい世界にいる末っ子のことが心配だったのかもしれませんね。

親心というか、母心というか、そんな気持ちからのことだったような気がします。

また、たけしさんも、そんな母親のことを大切に思っていたのでしょうね。

さきさんの葬儀の日の取材で、「母ちゃんいないと気が抜けちゃうね」といったことを話していました。

そして、記者が「お母さんの一生はお子さんに賭けた一生だったのでは」と問うと、たけしさんはその場で泣き崩れていましたが、この話しも含め、それまでの記憶が蘇ったのかもしれませんね。