謎のしきたりに馴染めない

ブログに書いて何かあるといけないので具体的なことは書きませんが、勤め先に謎のしきたりがありまして、なんの意味があるのだろうと思いつつも、ずっとそれに従っています。

性格的に、いったん気になると止まらないところがあるので、しきたりが無くなってくれることが一番なのですが、自分が指摘することで摩擦を起こしても仕方がないよなあ…とも思ったりして、何となくモヤモヤしています。

 

人が集まるとしきたりができる

まあ、人が集まれば、何かしらのしきたりができることもありますからね。自分の人生を振り返ってみても、遊び友達の中でのしきたりもあれば、学生時代の部活でもしきたりがありました。

その中でも特に謎だったのが、同じ部活の先輩・後輩の間のしきたりですね。これも詳しく書いて何かあるといけないので具体的なことは書きませんが、学校の中で後輩が先輩とすれ違ったときにする挨拶が独特でした。

後輩が先輩に挨拶すること自体は当たり前のことですし、そういう当たり前のことは、しっかりやったほうが良いのは間違いないのですが、なぜそんな挨拶の仕方なの?と思うような挨拶だったのですよね。

たぶん、先輩が後輩にそうするように言ったのがきっかけで始まって、それがずっと引き継がれていたのだろうと思いますが、良く言えば伝統、悪く言えば奇習だと思います。

 

所属意識からくるバイアス

まあ、こういうのは、いわゆる集団同調バイアスなのでしょうね。自分が所属している集団(部活など)の意見に合わせてしまうという心理ですが、よく言えば協調性ということかもしれません。

ただ、集団の意見に合わせることが先にきてしまうことで、自分で物事を判断しないような行動を取ってしまう可能性があるという点では、かなり問題があるものだと思います。

もちろん、挨拶程度のことであれば、集団の外から見たら奇妙に見えるかもしれませんね…くらいの話しで済みますが、これが善悪に関わることであれば、話しが違ってきますよね。

例えば、以前に某社で起こったリコール隠しなどがそうですが、悪いことだとわかっていたものの、誰も言い出せなかったのでズルズルと続いてしまい、気がついたときには、某社の信用は地に落ちていました。

 

世間の感覚は大事

まあ、某社のリコール隠しの話しは極端な例だと思いますが、「やめたほうがよい」と言ってくれる人を大事にしたほうが良いのは間違いないでしょうね。

人は、ずっと同じ顔ぶれの中にいると、いつしか自分たちの世界が正しいと思ってしまい、いったんそうなってしまうと、自分たちとは違う世界があることを忘れてしまうのだろうと思います。

また、そう考えると、客観的な視点というのは大事ですね。企業で問題が起こったときに、第三者委員会を作って検証するという話しになるのも、そういうことなのだろうと思います。

ただ、一番良いのは、自分たちが客観的な視点を持って、問題を起こさないようにすることですね。自分たちを見た世間の人たちはどう思うか…という想像力が必要ということかもしれません。

そして、これ以外にも必要なのが、多様な意見を取り入れる、異論を歓迎する…といった文化ではないかと思います…が、空気を読むという文化のある日本では、難しいかもしれませんね。