人は年齢を重ねるにつれて人生の意味を考えるようになる…といった話しがありますが、確かにその通りかもしれませんね。
自分も人生の残り時間を意識するようになったあたりから、人生の意味を考えるようになりました。
意味を見つけようとしたものの…
別に、人前で胸を張って語れるような壮大な意味を考えようとしていたわけではないですけどね。
誰かに聞かれたときに、何かしら話しができればいいなあ…くらいで考えていました。
ただ、結局のところ、それらしいことは見つかりませんでしたけどね。
「他人のため社会のため」といったことが頭に浮かんだこともありましたが、そんな大そうなことを語れるような人生を送ってきたわけではないので、そういうことを却下していたからかもしれませんが…
意味が見つからないと不安になる
でも、そうなると本当に何も浮かんでこないのですよ。
これといって力を入れてきたことも無く、何か強い信念があるということでもなく、当然、使命感といったものも無く…といった感じだからかなあ…
信仰心や宗教観といったものは人並みにはあると思うのですけどね。
ただ、「自分は生かされている」といった感覚は無いのです。
そういう感覚があれば、「何のために生かされているのか」といったことを考えたかもしれませんし、そこから人生の意味を見つけることができたのかもしれませんが…
また、主体性もそれほど無いですし、学びや成長といったことも特に無い…
そういったものがあれば、それが目的になって、そこから人生の意味を見つけられたかもしれませんけどね…
といった感じだったのですが、意味を求めていながら意味が見つからないということについては、少しばかり不安になったこともありました。
よく、「人は意味を求める生き物」と言いますが、それだけに、意味が見つからないとなるとそんな感じになってしまうのかも…
悩むくらいなら手放したほうが良い
でも、不安になって悩まされるくらいであれば、いっそのこと手放してしまうほうが良いかもしれませんよね。
人生の意味は人それぞれですから、どれが正解でどれが間違いとは言い難いですし、そうである以上、人生の意味を手放すことが不正解というわけでもないと思いますし…
人生の意味が見つかればそれでいい。人生の意味を考え続けて不安になるくらいなら考えなくてもいい…というくらいで良いのかもしれません。
自分が疲弊してまで他人や世間の物差しで考えても仕方がないですし、むしろ、他人や世間の言うことに巻き込まれないという自律性を優先したほうが良いような気もします。
意味はなくても価値はある
また、人生の意味を手放すことは、「人生の意味」ではなく「人生の価値」に焦点を当てることでもあるのかなあと思います。
人生には、ささやかな喜び、そこはかとない心地よさ、何気ない安心感など、「意味」というラベルを貼らなくても楽しめる「価値あるもの」が散らばっていますからね。
「人生に意味はない」と口にするのは、少し寂しく、勇気がいることかもしれませんが、それが幸せの入り口でもあるのかなあという気もしますので、自分なりの幸せを求めて、思うままに動いても良いのではないでしょうか。