「挨拶しない自由があるんじゃないかな」
今の若い人たちの中には、そういった考え方の人もいるという話しを聞きましたが、こういったことも、時代の変化の一つなのかもしれませんね。
挨拶というマナーの話しを、自由という言葉で語る感覚がよく分かりませんでしたが、挨拶のように、常識すぎて誰も疑わないことについての問題提起はあっても良いのかなあという気はしました。
個人の自由は尊重されるべき
挨拶は、誰かに強要するものでもなく、誰かから強要されるものでもないと思いますし、その意味で「挨拶をする義務はない」ので、基本的には本人の自由な意思で行うものだろうと思います。
ただ、難しいのは「自由と社会性の関係」ですね。人間関係は、「個人の自由」と「円滑な社会に必要な常識」という二者のバランスで成り立っていると思いますので、無制限の自由は許容されないと思います。
「個人の自由は尊重されるべきだが、それは他者への影響を考慮した上でのものであるべき」というのが今の社会のコンセンサスだと思いますので、「挨拶しない自由」を主張するのは構わないと思いますが、それが常に許容されるとは限らないということですね。
「挨拶しない自由がある」と言うのは簡単ですが、実際にそれを公言したら、「そういう人を相手にしない自由もある」と言い返されるか、言い返されないまでも態度で示されるのではないでしょうか。
人間関係の基本は等価交換
基本的に、人間関係というのは等価交換のようなものですからね。
よく、「社会的な文脈や人間関係は複雑」と言いますが、その根底には、「他人に対して何かをすれば、それと同じくらい他人から何かをされる」という、極めてシンプルな法則があると思います。
なので、挨拶という「やって当たり」のようになっていることができないとなったら、「そんなこともできない人間」という扱いになるでしょうし、そうなったら、面倒な思いをするのは自分自身なのですよね。
また、こういう言い方はどうかと思いますが、挨拶というのは、「やったところで損することはない。むしろ、やれば得をすることもある」ことの一つですので、やらないのはもったいないと思います。
もちろん、世の中には他人を見下したり、嫌がらせをする人もいて、そういう人の中には、他人から挨拶されても無視するという人もいると思いますので、そういう人には「挨拶しない」ということなら、理解されなくもないでしょうけどね。
常識は長い時間を経て変わっていく
ただ、常識というのは、長い時間を経て変わっていくものですからね。今後、挨拶しないという人が増えてくれば、それが常識になっていくとは思います。
特に、デジタルネイティブ世代は、何でもオンラインで完結できると考える傾向があるようですからね。
挨拶のような「対面でのコミュニケーションは不要」と考える人がいても不思議ではないと思います。
また、マルハラでしたっけ?
今は文章の最後に句読点「。」をつけただけでハラスメントと言われる時代ですからね。そういう考えの人たちが社会の中心で活躍する時代になったら、今の常識も様変わりすると思います。
「挨拶するよう指導した上司がハラスメントで訴えられた」
「出勤したら無言で着席し、定時になったら無言で帰宅」
もしかしたら、こんな感じの無味乾燥な職場がスタンダードになる日が来るかもしれませんね。