古代ギリシャ時代、一人の旅人が石切り場の前を通りかかると、そこで三人の石工が働いていました。石工の仕事に興味を持った旅人は、石工たちに質問をします…
こんな感じで始まる「三人の石工」の話しですが、話し手によって微妙に表現が異なるものの、おおむね以下のような話しが続きますよね。
旅人は一人目の石工に尋ねます。
「あなたは何をしているのですか?」
すると、その石工はつまらなそうな顔をして答えました。
「食べていくために働いているんだよ」
次に旅人は、二人目の石工に同じことを尋ねます。
「あなたは何をしているのですか?」
すると、二人目の石工は汗をぬぐいながら答えました。
「石工の仕事をしているんだよ」
さらに旅人は、三人目の石工にも同じことを尋ねます。
「あなたは何をしているのですか?」
すると、三人目の石工は目を輝かせながら答えました。
「教会を建てているんだよ」
石工という同じ職業に就いている三人ですが、 同じ質問をしても、三者三様、違う答えが返ってくるというわけですね。
そして、そこから、
「一人目の石工は、お金のために仕事をしているのでしょう」
「二人目の石工は、職業意識を持って仕事をしているのでしょう」
「三人目の石工は、目的を理解して仕事をしているのでしょう」
といった話しが続き、
「仕事をするのであれば、三人目の石工のようなマインドを持ちましょう」
という結論に至るわけです。
また、話し手によっては、
「お金のために仕事をするのは『作業』ですね」
「職業意識を持って仕事をするのが『仕事』です」
「目的を理解して仕事をしている『志業』が望ましいでしょう」
と、さらに話しを続けたり、
「みんなの心のよりどころを作っている」
と答えた四人目の石工がいるという話しを付け加える人もいるようです。
「四人目の石工は、自分の仕事の『使命』を理解している」
というわけですね。
そして、そのあとには、「人は何のために働くのか」という話しが続くと思います。
人が働くのは「生活のため」だけではありません。人は、「承認欲求」「楽しみや生き甲斐」「仕事を通じた社会貢献」「自己実現」といった、様々な理由で働いています。それが仕事の醍醐味なのです。
まあ、確かにその通りですよね。
ただ、すべての人が仕事に醍醐味を感じられるかと言えば、それはちょっと違うような気がしますので、少なくとも「そうあるべきだ」といった強い思いは持たない方が良いと思います。
例えば、ノルマのある仕事で、かつ、それが強く求められる職場だったりすると、目先の利益や効率性に関心が向いて、場合によっては、本来の仕事の目的や価値を見失うこともあると思うのですよね。
そして、そういうときに自分の理想的な姿を強く思い浮かべてしまうと、理想と現実との差に直面することになり、精神的な負担が大きくなってしまうと思います。
三人の石工に限らず、ビジョンやマインドを語る話しはたくさんありますが、こういう話しはほどほどに聞かないと、デメリットのほうが大きくなってしまうのですよね。
また、もしそういう状況になってしまったら、何でも良いので「好き」を探してみると良いと思います。
「会社のこういうところが好き」「同僚たちのこういうところが好き」といったことが見つかり、それに対して自分が貢献できそうなところが見つかれば、仕事に対するマインドも、少しはポジティブなほうに傾くと思いますので…
また、そういったところがまったく見つからないということであれば、仕事は仕事として割り切ったほうが良いと思います。そうやって一歩引くことで、見えてるくものもあると思いますよ。
ちなみに、「石工」という言葉があまり一般的でないからかもしれませんが、「三人の石工」ではなく、「三人のレンガ職人」という話しもあるようですね、
ただ、レンガ職人の話しも、
「一人目の職人は、仕方なくレンガを積んでいる」
「二人目の職人は、レンガ積みの仕事をしている」
「三人目の職人は、歴史に残る聖堂を造っている」
といった感じですので、内容に違いは無さそうです。